巣立ちの時

1975年、師匠である平尾昌晃からいよいよ巣立ちます!
本格的に外部の作曲家の作品を歌い始めるんですね~。

森田公一さんを作曲に迎えたポップス演歌「哀恋記」は、軽いアクションが話題を集め、最高位10位、登場週数16週、15万枚を超える売上げを記録したんですよね。
爆発的に売れた感じでしたね^^
この曲で、第3回FNS歌謡祭'75音楽大賞上期最優秀視聴者賞を3期連続3回目の受賞をします。

音頭もの「さくら音頭」は、桜の季節に合わせて発売になり、和服姿で披露~~!
1934年に各社競作で発売になった同名異曲が存在することから紛らわしいとして、後年「ひろしのさくら音頭」と題名を変更します。
同じのがあるものなんですねぇ・・・。

sakura_ondo.jpg

譲りました。

当時の新聞や雑誌には、一連の騒動について、“買収”や“札束が飛び交う”、“札束攻勢”などと書かれていたそうです。

最終的には、前年に大賞を獲得している五木さんがまだ受賞していない「最優秀歌唱賞を欲しい!」と宣言し照準を変更することによって、大賞候補として1968年から1971年まで4年連続でノミネートされながらもすべて逃しているところから「今度こそは何が何でも大賞を!」と意気込む森さんに大賞を譲ったものといわれています。

何だかんだで仲良しですね。
ライバル友ですね^^

一騎打ち

特に日本レコード大賞を巡る森進一さんと五木さんの一騎打ちは激しいです。
今日でさえ当時の事情を知る関係者の間では、“日本レコード大賞史上最大の激戦”として語り草になっているそうです!私にとっては、見ものですが^^

森進一さんにとっては初の大賞受賞を、そして五木さんにとっては史上初となる連続での大賞受賞を、それぞれ目指したのですが、歌手としての力量やレコードの売上げ、一年間を通しての活躍度等は“互角”との評価でした。最強のライバルですね!

当時の審査システムが“無記名投票”を採用していて、受賞の成否はその盲点を突き“審査員に対する多数派工作に係る”と判断された為、事態は段々と“場外バトル(裏工作合戦)”というものに・・・。
うーん・・・、凄いとしかいえませんが・・・。

古賀メロディー

五木さんはデビュー当初から「古賀メロディーを自分の持ち歌にしたい」と希望していたそうですが、古賀政男さんがコロムビア専属作曲家であったので・・・つまり“レコード会社間の壁”に阻まれていたのです・・。(;;)

でも、その後やっと五木さんの熱意が実り、古賀メロディー「浜昼顔」が誕生するには誕生しますが・・・五木さんの為に書き下ろされた新曲という訳にはいかず・・。うーん、でも貰えただけでも感謝ですけどね、複雑です。

古賀政男さんは既に発表された自作曲にリメイクを施した上で再発表することが何度かあり、今回も1936年7月頃、藤山一郎に提供した「さらば青春」にリメイクを施し、1955年12月、青木光一さんに「都に花の散る夜は」として提供したものに再度リメイクを施し、詩人の寺山修司さんが題と詞を付け直している複雑な工程を経て出来た曲なのです。

最高位5位、登場週数29週、40万枚に迫る売上げを記録しました^^

多忙でした

ほぼ毎日放送されていた歌謡番組は大半が生放送であったため、五木は決してアイドルではないにも拘らず、連日各放送局を掛け持ちで出演するなど多忙を極める。

その都度、特徴的な人懐っこい“細い目”を再三に亘り司会者などから茶化されるが、それを五木は軽妙に切り返して笑いを誘うなど、コミカルな部分をも持ち合わせていた。
物真似番組にも数多く出演し、チャンピオンに度々選抜される。
テレビに限らず、ラジオ、新聞、雑誌などマスコミ各社からひっぱりだことなるなど人気を博す。

スマッシュ・ヒット

第三弾シングル「かもめ町みなと町」は前作同様にマドロス演歌ながらも、敢えてアイドル歌謡を中心に手懸けて実績を残しつつあった筒美京平を作曲に迎え、最高位11位、登場週数18週、15万枚を超える売上げを記録。

第四弾シングルとして藤本卓也を作曲に迎えた「待っている女」は、ポップス演歌とプロモーションされ、最高位6位、登場週数22週、25万枚を超える売上げを記録。

ポップス演歌第二弾となる「夜汽車の女」は、前作の続編的性格を持ち、スマッシュ・ヒットに終わる。

腰をシェイク

マイクを左手で持ち、右手は拳を握り締め、腰をシェイクさせてリズムを採る独特の歌唱スタイルは、同じ野口プロモーションに所属していたキックボクサー・沢村忠の“ファイティング・スタイル”からヒントを得たもので、物真似をされるほどに五木の代名詞(トレードマーク)として定着してゆく。五木は「“拳”は演歌の“コブシ(小節)”を斯けている」と語っている。

「よこはま・たそがれ」はオリコン・シングル・チャートで、最高位1位、登場週数46週、65万枚に迫る売上げを記録(以下、文中のチャート・データはすべてオリコン・シングル・チャートに基づく)し、幸先の良い再スタートを切る。

五木寛之から・・・

山口洋子が五木寛之から苗字を頂戴し、新しい芸名を“五木ひろし”と命名。

山口洋子は“五木ひろし”としてのデビュー・シングルのために単語の羅列ながらも、女ごころを表現した詞を書き、平尾昌晃がそれにモダンでソフトな演歌調の曲を付ける。 ロカビリー歌手から転身した作曲家の平尾昌晃(歌手時代の名義:平尾昌章)にとって、演歌作品はこれが初めて。

3月、“五木ひろし”を芸名として、ミノルフォンから「よこはま・たそがれ」で再デビューを果たす。

1970年(昭和45年) の五木さん

“三谷謙”名義では、シングルを一枚発売するもヒットに至らず。 デビューしてからの約五年間は、この間に二度も芸名を変更するなど不遇の時代を過ごす。

オーディション番組「全日本歌謡選手権」(よみうりテレビ制作)に、歌手生命のすべてを賭けてミノルフォン専属のプロ歌手“三谷謙”として出場。 第1週挑戦時には、「これで駄目なら、ふるさとの福井に帰って農業をやる」と悲壮な覚悟の程を語っているが、最終的には10週連続で勝ち残り、グランドチャンピオンに輝く。 これにより、レコード歌手として再デビューできる権利を獲得。

松山 数夫

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五木 ひろし(いつき ひろし、本名:松山 数夫(まつやま かずお)、1948年3月14日- ) は、
日本を代表する歌手のひとりである。人気と実力を併せ持ち、還暦を迎えた現在もなお、
第一線で活躍する。作曲家、俳優でもある。2007年、紫綬褒章を受章した。
福井県三方郡美浜町出身。所属事務所はアップフロントエージェンシー。

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